平成2年(18歳)当時に、日本に1校のみの「明治鍼灸大学(京都)」に入学しました。その頃、この大学は「鍼灸界の東大」といわれ、まだ日本に3台しかない「MRI」を導入した明治鍼灸大学付属病院もありました。今のようにコンパクトなMRIでなく、高さが普通の部屋なら天井に着くほど?もある巨大な建物のようなMRIでした。
この病院は産科以外のすべての診療科を備えた規模の大きな病院で、「京都府立医科大学」の医師達が、明治鍼灸大学の教授・助教授などに就任して、各科の診療に当たっておられました。
私たち学生は、西洋医学の分野では、この医師たちから全ての診療科目の授業や全ての外来診療科の病院実習、解剖学や生理学の実習から手術の見学実習まで鍼灸師に必要なすべてを教わりました。また、在学中に病気にかかった時などもこの先生方の診察治療を受けられるようになっており、本当に有難かったです。
また、東洋医学の分野では、東洋医学系鍼灸、西洋医学系鍼灸の各分野のエキスパートの教授陣がそろっており、多種多様過ぎて、将来どの分野に進んでいいものかと迷うぐらい、すばらしい教育体系が組まれていました。私は大学院には進学しませんでしたが、在学中に鍼灸学の博士課程まで設置されるなど、鍼灸に関する高度な教育機関に成長する真っただ中に在学でき幸運でした。
そのような環境からか、現在、日本全国の鍼灸学部を要する大学や、専門学校で教鞭をとる卒業生を数多く輩出しています。このように当時の最先端の鍼灸を学べる明治鍼灸大学を卒業できて本当に良かったと、心から思っています。
在学中は楽しかったし、いろいろ経験できたので断然、この大学で良かったのですが・・・
私は宮崎が大好きで、夏休み、冬休み、春休み前には指折り数えて帰省の日を待ちわび、その日に至ると間髪入れずに帰省していました。逆に、休みが終わる前になると、宇宙戦艦ヤマトで毎回聞くフレーズの「地球滅亡まであと〇〇日」のように京都に戻るまで「あと何日」と言っている私をみて、家族が笑うほどでした。
卒業後、大阪で修業し、平成10年に宮崎で開業。
平成10年に宮崎で鍼灸専門院を開業したのは?
元々、鍼灸の大学に入る前から、将来、開業することは決めていました。平成8年頃、大阪市港区の外科医院に勤務していたのですが、退職して開業しようと決心しました。当時は、大阪もしくは宮崎での開業を考えていました。大阪市内では通りに面した賃貸店舗を時々眺めたりしていましたが、最終的に宮崎で開業しようと決めました。
それは・・・
宮崎が好き。
大学入学時から将来は、大好きな曽祖母や祖父や祖母に鍼灸をして孝行する。
初期投資がかからない。
という事に加えて、一日に施術できる人数は大阪でも宮崎でも同じ。
という理由で、宮崎市内で開業しようと判断したのでした。この時25歳です。
実は、決めた後、外科を退職する直前に、ご来院の患者様から「うちの店舗を無料で貸すから開業しないか?」と言われたのです。心が少し動きました。私のことを気に入っていただき、すごくうれしかったのですが、初期投資がかからないという条件を満たしたものの、そのほかの条件は満たしようもなく、やはり宮崎で開業しようと、その方の申し出を、もったいなくも即決でお断りさせていただきました。
今思い出しても、かなりもったいないお誘いだったことは言うまでもありませんが、25歳という年齢からか深く考えることもなく簡単に断ってしまったのです。
という事で、平成9年の12月に宮崎にUターンし、翌1月に往診専門で開業しました。
往診専門なのでご自宅に伺うといっているのに、なぜか私の自宅(実家)に皆さんお越しになり、このまま続けても家族にも迷惑がかかるという事で、平成10年5月に大塚台にて鍼灸院を開業したのでした。
この時には、曽祖母はすでに亡くなっていましたが、祖父2人、祖母2人と4人いました。曽祖母は鍼を受けるのが好きで学生時代にはよく実験台になってもらっていました。鍼を受けることを一番楽しみにしていたようでしたが開業に間に合わなかったのが悔やまれます。現在は全員亡くなっていますが、少しは孝行できなのかなと自分勝手に思っています。これからは、親孝行の一つとしての鍼灸を少しでも多くできればいいなと思っています。
そして、宮崎の方々にも、家族と同じように接して県民孝行? 言い方がすこし変ですが、鍼灸施術を通して少しでもお役に立てればいいなと思っています。
私、高野義道の詳しい履歴書は、スタッフ紹介に掲載していますので、よろしければそちらもご覧ください。